雑 記 帳


★測量との出会い
 中学2年生の頃、授業が終わって自転車で帰る途中、道路の端に今まで見たこともない50cm位の平たい板が3本の棒で支えられて立っていた。誰も居なっかったので平たい板を覗いて見ると、なんとビックリ周りの道路や建物が縮小されてきれいに細かく描かれているではないか。しばらくの間、その絵に釘付けになった。そのうちポールを持った人たちが家の裏から出てきたので、素知らぬ振りをしてその場を離れた。
 家に帰って、どうしたらあんな絵が描けるのだろうか、不思議でたまらなっかった。そして、あんな絵が描けたらいいな、いやあんな絵を描きたい、あんな絵を描けるようにするにはどうすればいいのか自分なりに調べた。測量用語で言う「平板測量」を行っていたのである。


★測量への路
 測量技術者になるには土木系の高校に行って測量の勉強をしなければならない。通学できる範囲内に土木系の高校は、工業高校と農業高校の2校があった。農業高校は、測量の授業に力を入れていて、特に測量士補の資格を取らせることを誇りとしていた。工業高校は、程度が高くて行けない要素が多かった事はおいといて、私は迷わず農業高校の農業土木科を志望した。
 まじめに受けた授業といえば測量と数学の授業だけ、その他の授業は放課後のクラブ活動に差し支えるので・・・。
 高校3年生の5月に測量士補の試験を受けた。とても難しかったが択一式だったので答えは全部書けた。8月に合格通知が届いたとき舞い上がるほど感激した。これで測量技術者になる事へのこだわりを一層深めた。

 進路を決める時父は、そんなに測量がやりたいのなら測量専門学校へ行けばいいと進められた。賛成だったが、当時反抗期の時期もあって、親元を1日も早く抜け出したかったことと、今の状態で測量専門学校へ行っても高校の延長にすぎない。実務を3年位やって、わからないこと、覚えたいことがはっきりしてから行った方が生きた勉強ができるのではないかと思い、とりあえず就職をして自分の稼いだお金が貯まったら行く事にした。
 当時(昭和47年)は、社会の景気が良かったのか、ほとんどの人が希望する会社へ就職したように思う。
 まず、就職する場所を選定した。九州では近すぎるし、東京では遠すぎる。大阪か名古屋か最終的に、これから開発される要素を多く含んだ名古屋に決めた。実際のところ、親元を離れればどこでも良かったのだった。

 国内の有名企業はほとんどが航空写真測量を主体とする会社であった。会社の選択基準は、大きい会社は特定の分野を専門的にやらされるのではないかと思い、色々な測量に手掛けたかったことから、中堅の実測会社を選択した。


★実際の測量
 はれて想い通りの会社へ就職できた。
 まず就職して教育されたのが数字の練習だった。字の大きさ、書体等を注意され1週間4ミリ方眼紙にびっしり書かされた。字をきれいに書くことよりも測量技術者としての心構えを教えられたような気がした。
 ピカピカの作業服と安全靴で身を固めライトバンに乗り込み、いざ測量現場へ。自然の中で行う測量は、学校の真っ平らな校庭で行ってきた実習とはまったく異質のものだった。現場にあわせて使用する器機を使い分け、一人一人の動きに無駄がない。これがプロの測量か。

 計算の手段は真数表とタイガーの
手廻し計算機である。計算する桁数は20桁、加減乗除はもちろん平方根まで解ける優れもの。カタカタガリガリガリ・・・チーン。朝から晩まで事務所の中は騒々しい。出張先の旅館で使おうものならすぐに苦情が飛んでくる。水準測量の計算はそろばんを使用した。今までほとんど使ったことがなかったので苦労した。間違え、しかられを繰り返しているうちに暗算が少し得意になった。
 座標計算、高低計算等のほとんどの計算が手計算であった。計算書は計算手順にそって座取られていて、教わったとおりに計算を進めていくと結果が得られるが、当の本人は何をやっているのか、求まったものが何なのかさっぱり解らない。とにかく間に合わせるために理屈抜きに体で覚えていった。同じ計算を繰り返し行っているうちに方法や目的がわかってきたが、常に理論が後から付いてくるといった感じだった。また、その計算方法が数学理論と深い関係にあることがわかるまでには、もう数年の時間と経験が必要だった。

 測量の仕事は自然の現場作業が主、夏は暑すぎ、冬は寒すぎて、比較的過ごしやすい春・秋にしてもからだを少し動かせば汗がでるし、基準点を埋める穴掘り、視通を確保するための伐採、高い山への資材運搬、急峻な地形の移動等やっていることはおおざぱな力仕事ばかり、かと思うと器械手などは細かい作業で一日中立ちっぱなし、「忍」の一字である。また、現場で得たデータをその日のうちに整理したり、次の日の段取り等で退社時間は不揃い。学生時代に想像していた繊細でかっこいい測量技術者のイメージとは実際のところずいぶんかけ離れていた。何でこんな仕事にあこがれたのだろう、仕事の内容がわかってくるにしたがって反省の日々が続いた。しかし、学生時代にクラブ活動で鍛えた体には自信があったので体力的なことは苦にはならなっかった。もう少し続けてみるか・・・。


★出張現場
 会社から通勤圏内の現場の場合、入社一年目の新人は日替わりで作業現場を変えられた。毎日作業の内容が違うため作業のつながりがわからず、前記の計算と同様何をやっているのか、これから何をやればよいのかよくわからなかった。そのため、ミスや勘違いが多く何でもないことでよくしかられた。
 出張現場の仕事がでると積極的に立候補した。一年のうち3分の2は出張現場だった。会社の寮にいるのも旅館にいるのも九州の実家からのことを思うとさほど変わらないし、珍しいものが食べられて酒付き(内緒で持ち込みがほとんど)その上、出張手当付きとくれば安月給取り(初任給3万9千円)には応えられない。出張現場では、成果の大半を出張先で仕上げてくるため、時間的な束縛はあったが、作業工程、作業方法、計算の手順等がよくわかり、仕事を覚えるには出張が一番手っ取り早い方法であると感じた。

 出張現場の班編成はだいたい同じ顔ぶれで、必ず同じ作業班長(鬼軍曹)に当てられた。この鬼軍曹、年齢は自分より5つほど年上の人だが、とんでもなく仕事のできる人でした。先見の目が肥えているというか、測量的センスが良いというのか、さほど経験も積んでいないのに既に20年くらい測量に従事している人のように思えた。2年間に満たないお付き合いであったが測量技術者としての基礎だけでなく、仕事に臨む基本姿勢を徹底的にたたき込まれた。生涯忘れることの出来ない人物の一人である。



今回はここまで、少しずつ増やしていきます。 お楽しみに・・・


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